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Essay

自分という未知を
どう扱うか

──自分ingの概念

自分は名詞ではなく、動詞に近い

2026年5月2日 · 読了 3分

「自分」とは何者か、という問いに答えられる人はほとんどいない。それは答えが存在しないのではなく、答えが絶えず変化しているからだ。

「自分」とは何者か、という問いに答えられる人はほとんどいない。それは答えが存在しないのではなく、答えが絶えず変化しているからだ。

私たちは「自分」を固定したものとして扱いがちだ。性格、才能、得意なこと、苦手なこと。それらがまるで生まれつき決まっているかのように語り、その枠の中で生きようとする。しかしそれは本当だろうか。

そうではないと、私は考えている。「自分」の状態とは本来固定されたものではなく、内的・外的な環境との関わりの中で絶えず生まれ続ける、動的なプロセスだ。言い換えれば、「自分」は名詞ではなく動詞に近い。


インドに自分探しに行く人がいる。芸能人が「出たことのないジャンルの番組に出ると自分が変わる」と語ることがある。転職して別の環境に身を置いたとたん、これまでになく輝きはじめる人がいる。

これらに共通しているのは何か。体験したことのない外的環境に触れたとき、体験したことのない「自分」が顕在化されるという現象だ。その「自分」は以前から存在していたのか、それとも新たに生まれたのか。おそらくどちらでもある。ポテンシャルとして潜在していたものが、環境という触媒によって引き出された、という方が正確かもしれない。

同じことは内的環境にも起きる。新しい生き方や価値観に出会い、それまでの自分の在り方が揺らぎはじめる。既存の環境の中で機能不全のような感覚が生まれ、やがてそれが新たな適応へと続いていく。外側が変わらなくても、内側の変化が「別の自分」を顕在化させる。


こうした観察から、私はひとつの概念を提唱したい。自分ing、あるいは自己実現ingと呼んでもいい。

「-ing」を付けるのは意図的だ。自分とは完成形ではなく、現在進行形のプロセスだということを示したい。自分は持つものではなく、生成し続けるものだ。


この自分ingに対して、人は大きく二つの態度をとる。

開き続けることと、閉じ続けることだ。

開き続ける人は、生成し続ける自分と共に生きることを選ぶ。ある環境にうまく適応できていても、内側からの声に従って自らそこを去る。あるいは環境そのものを刷新していく。このプロセスは必ずしもスムーズではない。むしろ長い停滞を伴うことの方が多い。それでも、動的な自分を信頼して歩み続ける。

閉じ続ける人は、ある特定の環境に最適化した状態で表面が固まっていく。安定しているように見えるが、内側では依然として顕在化されようとしているポテンシャルが動き続けている。そのズレがじわじわとした不快感になる。ときにそれは、抑圧されたエネルギーとして身体的な症状に変換されることさえある。


「自分とは未知である」という前提を受け入れることは、最初は不安定に感じる。しかし考えてみれば、これほど自由な前提もない。自分はまだ会ったことのない自分を持っている。それはまだ触れたことのない環境が存在する限り、可能性として在り続ける。

どう扱うかで、人生の体験は変わる。

自分という未知を、探究したい方へ。

まだ名前のない感覚を、
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