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Essay

本物ほど、都合のいい嘘に合わせられない

ブロックは邪魔者ではなく、安全装置でもある

2026年5月19日 · 読了 5分

都合のいい話には、どこか継ぎ接ぎがある。 一見、希望に見える。

都合のいい話には、どこか継ぎ接ぎがある。

一見、希望に見える。

「ブロックを外せば、嘘みたいに物事が加速する」 「本当の自分に戻れば、夢はすぐ叶う」 「怖さを手放せば、現実は一気に変わる」

そういう言葉には、確かに人を前に向かせる力がある。 けれど、どこかで身体が引っかかることもある。

その話は明るい。 でも、明るすぎる。

本当に人が変わっていくときの、あの重さや、揺れや、少しずつしか進めない感じが、きれいに抜け落ちているように感じる。

ブロックは、ただの邪魔者ではない

もちろん、ふっと霧が晴れるような体験はある。

誰かとの対話の中で、自分を縛っていた思い込みに気づく。 ずっと抱えていた感情がほどける。 ああ、これでもう前に進める、と思う。

そういう瞬間は、本当にある。

けれど、そのあとにまた、別のところで足が止まることがある。

理由がはっきりあるわけではない。 ただ、なんとなく気持ちが乗らない。 現実感が薄くなる。 動けるはずなのに、前へ進まない。

すると、また原因探しが始まる。

まだ外せていないブロックがあるのかもしれない。 もっと深い傷があるのかもしれない。 もっと強い体験が必要なのかもしれない。

でも僕は、そこに働いているものを、ただの抵抗や弱さだとは思っていない。

それは、次の安全装置なのだと思う。

今の自分が知っている枠の外へ、いきなり出ていかないように守ってくれているもの。 いわゆる「ブロック」と呼ばれるものも、本当はただの邪魔者ではない。

それは、自分を守る城壁のようなものでもある。

その壁があるから前に進めない、という面は確かにある。 でも同時に、その壁があるから、今の自分が耐えられる範囲の不自由さの中で、なんとか暮らしてこられた。

つまり、守ってくれていた。

急に自由になることは、怖い

「ブロックを外せば、どんどん前に行ける」

この言葉が乱暴に感じるのは、守ってきたものへの敬意が抜けているからだ。

もし、その壁だけを急に外してしまったら、人は丸裸で世界に放り出されたような状態になる。

大きな自由や可能性に触れたとしても、それを受け取る器がまだ育っていなければ、怖くなって、揺らいで、また元の場所に戻ろうとする。

これは、意志が弱いからではない。

人にはそれぞれ、今の「体験の器」がある。

今の自分が耐えられる不幸。 今の自分が耐えられる幸福。 今の自分が受け取れる変化。 今の自分が安心していられる現実。

その範囲を超えたものは、たとえ良いものであっても、身体や心にとっては脅威になる。

だから本当に必要なのは、無理やりブロックを外すことではない。

まず、「大丈夫だ」という感覚を、身体と心に教え直していくことなのだと思う。

安心していい。 感じてもいい。 欲しがってもいい。 避けたいものがあってもいい。 こだわっている自分がいてもいい。

そうやって、自分の内側に心理的安全性が生まれてくると、少しずつ器が広がっていく。

内側にも、安全な場が必要になる

組織でよく言われる心理的安全性と、これはよく似ている。

何か意見を出しても、立場が悪くならない。 変なことを言っても、すぐに却下されない。 弱さや違和感を出しても、そこに居続けていい。

そういう安全な場があると、人は少しずつ本音を出せるようになる。

心の中も同じだ。

自分にとって都合の悪い感情。 見たくない願い。 認めたくない欲望。 弱さ、怒り、嫉妬、怖さ。

そういうものが上がってきたときに、すぐに封印しない。 なかったことにしない。 きれいな言葉で片づけない。

ちゃんとその心地悪さの中に、少しだけ身を置いてみる。

すると、そこから不思議と、次の変化が始まっていく。

大切なのは、「こうなったら変われるんじゃないか」という派手なビジョンではないのかもしれない。

もっと素朴に、

本当に自分が安心だったら、これを通して何がしたくなるんだろう。

そうやって、自分に聞いてみること。

自分がどうしても避けたいもの。 自分が妙にこだわっているもの。 なかなか手放せないもの。

それを無理に正そうとするのではなく、それはそれとして受け入れてみる。

すると、「でも本当は、もっと大事なことがあるのかもしれない」という、より広い命の求めが始まってくる。

僕はそこに、本当の変化があると思っている。

本物の変化は、少し地味だ

都合のいい嘘は、すぐに希望を見せてくれる。

でも、その希望は、こちらの器を育ててはくれない。

本物の変化は、もう少し地味だ。

回り道のように見える。 時間がかかる。 一度わかったはずのことを、また別の深さでやり直すこともある。

けれど、自分の限界を知り、その限界を理解し、少しずつ受け入れ、やがて自然に超えていく。

たぶん、そういう登り方しかないのだと思う。

そしてそれは、決して残念なことではない。

誰かにとって都合のいい物語に、自分を合わせなくていい。 すぐに変わらない自分を、失敗だと決めなくていい。 まだ怖がっている自分を、置き去りにしなくていい。

本当の力は、誰かの都合のいい嘘に流されてしまうものではない。

それは、現実がどうであれ、自分の中に普遍的に灯っているものだ。

その灯りに戻っていくために、まずは安心していい。

そこからでいい。

自分という未知を、探究したい方へ。

まだ名前のない感覚を、
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手紙をお届けします。

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